極黒の影が君を覆う:阿部共実の漫画美学
(施川ユウキの作品より)
「阿部 僕もやっぱり、マンガとしてのキャラクターの立ち方を重視するというか。その一瞬だけ切り取ると面白くないとしても、全体で見たときにキャラクターを立たせる役に立ってるなら、それがマンガでは一番大事だと思うんです。例えばオチを意外なオチにしようと思うと、どうしてもキャラクターの動きが制限されてしまうときがあって、キャラクターをとるかオチをとるかみたいな選択になるときがあるんですが、そういうときはキャラクターを選びます。
──オチの巧みさより、キャラを立たせることのほうが優先順位が上だと。
阿部 読まれるのが1回だけっていう前提だと、それはオチが強いほうがいいんですけど。僕は何度も読みたくなるようなマンガがいいと思ってるので。ネタや話の構成の巧みさより、キャラとか感情とか空気とかが描けてるほうが何度も読みたくなるんじゃないかと。」
「施川 何度かやってみてるんですけどね。エレガンスイブ(秋田書店)増刊のもっと!でカラスヤ(サトシ)先生が連載されてる「おとろし」を読んだら、やたら面白くて、敵わねえ……って思っちゃいました(笑)。逆に阿部先生に、普通のエッセイマンガとか描いてほしい。ギャグマンガ家の普段の生活とか気になるし。
阿部 何も起きてなくて、めちゃくちゃ面白くないですよ。
施川 でも、起きなくても、いかに起きてないかってことを描けばいいんじゃない。
阿部 それ面白くないじゃないですか(笑)。
施川 いやいや、面白くなりますよ。日常をどう解釈するか、ですから。あまり自分を出したがらない人だと思うんだけど、そういう人こそ描いてほしい。
阿部 描いたらたぶん、大して暗くないことですら、すごく暗く描くと思います (笑)。」
「日常をどう解釈するか」で施川が話した後、阿部は「めちゃくちゃ面白くない」といい、最後には「描いたらたぶん、大して暗くないことですら、すごく暗く描くと思います。」と話している。それは何なのか。何が阿部共実の日常を「暗く」描かさせるのか。僕はそれが気になる。
近作「ちーちゃんはちょっと足りない」(第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞)の中で、小林ナツはちーちゃんが盗んだ金を使ってヘアリボンを買う。そしてそれを後悔するが、やったことを取戻すことはできない。煩悩し、絶望し、世界から離れて最後まで自分の罪から逃げられない。
それは阿部共実が描いてきた漫画の大主題なのだ。
なぜかというと、阿部共実の特徴は「影」、「ベタ」の使い方である。ベタは顔を隠す手段になったり、影になったり、線と面と白と黒のアンサンブルになったり、あるいは周りの「怖い」人間に化ける。
(「ちーちゃんはちょっと足りない」より)
しかし、この影は一体何なのか?影に名前はあるのか?これが阿部共実の「暗い話」と何の関係があるのか?
言わなくてもわかることがある。悲しみ、寂しさ、嬉しさなど、無理矢理言わなくてもそれをわかることはできる。それでも、言わなければならないことがある。ナツはちーちゃんを見つけて家に帰る。ちーちゃんと家に帰りながら、ナツは言う。
「どうでもいいや、そんなこと」
そんなことはどうでもいい。万引きをしても、金を使ってリボンを買っても、ちーちゃんがいなくなってまた彼女を見つけても、そんなことはどうでもいい。ナツはようやく「罪意識」に目が覚めたのだ。彼女は影を背負うことになる。
ちーちゃんという漫画はギャグではない。童話でもないし、少年漫画でもない。この漫画は人生の一面について語っている。それを受け取る(買う)人間は罪が人生を明瞭にすると信じる。受け取らない(買わない)人間は、人生と人間について別の世界観を持っている。それらを調和する普通の努力は意味があるかもしれない。だが、極めて難しい課題でもある。
ナツが涙を流しながら涙の海を作って、その下に影があって、またその下に影があって、地面が足の下にある。地面は全てを受け止めるように見える。しかし人間は今日も煩悩し、金を使い、また夜中(世の中)を物騒なものにする。
それでも良い。明日は朝に目がさめる。日が昇り、自分を覆う影が黒くなってまた黒くなって極黒に見えるんだと知っていても。