小説と新しい物

 最近、書いている、これから書く小説の方向についていろいろ考えてみた。そして結論を出せた。

「このままじゃダメだ。でも、一番嫌われる部分はそのまま押し続けるべき」


これって一体なんだろう、何をいいたいのかわからない人もきっといるだろう。真に、僕は筆遣いにあまり自信がない。賞をもらうことにももっとも自信がなくなる。書くことはすごく楽しくてやり甲斐がある、でも筆遣いが面白いと言って、翌日書けるなら、たぶん殆どの人が筆遣いを仕事として飯食ってる。例えば、ここではどんな筆なのかが問題になっている。それで、僕は僕がどんな筆を持つべきか、どんな風に書くか個人的にいろいろ悩んでみた。時折友達に聞いてみたり、周りの知人に意見を伺ったりして。そして出た結論がそれ。このままじゃダメだ。


このままじゃダメ、という思い込みが僕を動かせることには疑問がない。だけど、「このまま」の意味がよくわからない。「このまま」って一体なんだろう?このままってどういう事?僕の考える限り、それは人たちに依存する本能、愛を求める人の天性である。そんな本能や天性が決して悪いとは言わない。言えないだろう。しかし意味あるってことで全ての成り行きが真っ当になるわけじゃない。だとしたら、それは「意味」に対しての深い思いなく、本能的に飛び跳ねる、まさに生まれつきで貰った天性、「才能」に違いないに間違いなし。


 でも僕は才能を拒む。思いっきり、人たちに相応しい才能を。


 これはきっと我が儘だ。人たちが嫌いわけじゃない。バカだからでもない。付き合うことに疲れて?たぶん。明らかに、僕は書くことが好き。それは疑われることなどない。例えば僕は、無意識的に文章をページのなかに書き込んでる。本当ほぼ無意識的に。でもさあ、僕が僕の書いた小説を人たちに見せたり読ませたりするかと言えば、正直言ってしない。僕は怖がっているのだ、人たちに「読まれる」ことを。もちろん、それは僕に役立ち、そして僕の創作活動にも影響を及ぼす。いいか悪いかは別の問題にして、それにしても僕は、彼らに影響されることを怖がっている。それは怖い。恐ろしい。凄く、僕は人たちに読まれそうな小説を書くことが恐ろしい。それは、僕にとって、一番大切な「何か」を失いつつあることであるからだ。

 

 僕は怖がっているので小説を書きながらも、「このままじゃダメ」とか思いながらも、もっと嫌われたい。それを内心楽しむ。もし僕が頑張って小説を書き、投稿し、発表することになってしまったら、それはあかん。僕はきっと「いい形」を持つようになる。でもそのいい形って、実際は僕が本当に、真面目に書きたかった物語とは随分外れている。離れている。もう完全にそれを失っている。「待つことができれば譲る必要はない」とフロイトは言ったけど、その通り僕はこのままずっと待つことになる。しかし、一方では、僕は実践的な意味で僕を追い詰め、缶詰め、拘わり、そして僕をダメにするんだろう。でも「このままじゃダメ」というのは、よく考えてみると両方とも同じように思われる。一体俺って、今どこにいるんだ?

夏目漱石の「野分」て、結構面白い。村上春樹は読んでいる日本の小説家のなかで、夏目漱石吉行淳之介を述べている。これは100年前書かれた小説なんだけど、ぜんぜん古く感じられず、むしろ新しい感じまでする。さすが、夏目漱石って凄い。こんな鈍い筆遣いの僕とはぜんぜん違う。