小沢健二 - 流動体について のMV感想
先に動画を拝見することをお勧め。
語りたいことは散々で、オザケンの曲の素晴らしさについても色々語りたいわけだが、今度は控える。
具体的に、話題の範囲を縮小して動画の構成(composition)だけを語るつもりである。
1:変貌する四角形たち
シーンが変わる「雪」を除くと、いつも四角形たちが画面を占めている。しかも色も変わるし。これは一体何なの?
僕はこう思う。スーパーフラット(superflat)と呼ばれるように、現代の世界像は平面に収められ、立体性をすでに失っているのが現状だ。なのでオザケンもMVのコンセプトを考える時点でこの概念を参照したかもしれない。オザケンじゃなくても、他の人が目安に捉えていた、ということはできるだろう。
1を証明する他の証拠は、区分けされた画面の行列と、あくまでも平面的な白い文字の飛行。
2:「雪」はなんなの?
わからない。でも場面の異様なほどに高い緊張を緩める、和める効果はある。その意味で賢くて尊い。些細なことであっても、ここはさすがにオザケンならではのセンスを感じる。
3:最後の「壁」
色がないグレートーンの画面から色がついて、オザケンが去って画面の外に消えてゆく。
やはりオザケンは「共同体」と呼べるものを願望する、あるいは目的として動いていると思った。それはなぜかというと、スーパーフラットである世界の「イメージ」を統一した「世界像」に取り戻す、具体的な欲望を感じたからだ。オザケンは地球の環境と周りのコミットメント、あと第3世界の歴史と「原住民」の生活に興味を持っている。(詳しくは柴田元幸の「MONKEY」を参照するが良い)そんなオザケンだからこそ、最後の「彩の壁」は普通の壁以上の意味を保っている。
歌詞もそうだ。僕は金色の「魔法的」からジョン・マクダウェル(John Mcdowell)の「再魔法化」という言葉を思いついた。これは近代科学(的世界観)により「魔法」を失ってしまった現代をマクダウェルは「脱魔法化」と診断して、その処方として「再魔法化」を主張する。とんでもない言葉に聞こえるが、果たしてそうだろうか?
しかし彼の主張が正しいのであっても昔に戻ることはできない。「宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう」という言葉は、その「脱魔法化」を心の中で認めながらも、抵抗したい、芸術の形式を借りても「魔法」を残したいというオザケンの希望事項ではないか。
この三つは自分の意見であり、他人の意見などを参照したものではない。それぞれの思いがあって経験があって、オザケンのレファレンスも上に言及したものを超えているかもしれない。なので楽しんで貰えたら良いと思っている。
オザケンは素晴らしい作曲家であって、慎重なリベラルでもあって、「賢い」人間でもある。そんな彼の元気溢れる奇才を見ることができるのは、時々刻々変化する21世紀を生きる我らの喜びであり、感謝すべきことだろう。まるでオザケンが日本を離れてアメリカに出てから、世界観が180度変わったみたいに。ドキドキでワクワクの魔法を祈る。
極黒の影が君を覆う:阿部共実の漫画美学
(施川ユウキの作品より)
「阿部 僕もやっぱり、マンガとしてのキャラクターの立ち方を重視するというか。その一瞬だけ切り取ると面白くないとしても、全体で見たときにキャラクターを立たせる役に立ってるなら、それがマンガでは一番大事だと思うんです。例えばオチを意外なオチにしようと思うと、どうしてもキャラクターの動きが制限されてしまうときがあって、キャラクターをとるかオチをとるかみたいな選択になるときがあるんですが、そういうときはキャラクターを選びます。
──オチの巧みさより、キャラを立たせることのほうが優先順位が上だと。
阿部 読まれるのが1回だけっていう前提だと、それはオチが強いほうがいいんですけど。僕は何度も読みたくなるようなマンガがいいと思ってるので。ネタや話の構成の巧みさより、キャラとか感情とか空気とかが描けてるほうが何度も読みたくなるんじゃないかと。」
「施川 何度かやってみてるんですけどね。エレガンスイブ(秋田書店)増刊のもっと!でカラスヤ(サトシ)先生が連載されてる「おとろし」を読んだら、やたら面白くて、敵わねえ……って思っちゃいました(笑)。逆に阿部先生に、普通のエッセイマンガとか描いてほしい。ギャグマンガ家の普段の生活とか気になるし。
阿部 何も起きてなくて、めちゃくちゃ面白くないですよ。
施川 でも、起きなくても、いかに起きてないかってことを描けばいいんじゃない。
阿部 それ面白くないじゃないですか(笑)。
施川 いやいや、面白くなりますよ。日常をどう解釈するか、ですから。あまり自分を出したがらない人だと思うんだけど、そういう人こそ描いてほしい。
阿部 描いたらたぶん、大して暗くないことですら、すごく暗く描くと思います (笑)。」
「日常をどう解釈するか」で施川が話した後、阿部は「めちゃくちゃ面白くない」といい、最後には「描いたらたぶん、大して暗くないことですら、すごく暗く描くと思います。」と話している。それは何なのか。何が阿部共実の日常を「暗く」描かさせるのか。僕はそれが気になる。
近作「ちーちゃんはちょっと足りない」(第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞)の中で、小林ナツはちーちゃんが盗んだ金を使ってヘアリボンを買う。そしてそれを後悔するが、やったことを取戻すことはできない。煩悩し、絶望し、世界から離れて最後まで自分の罪から逃げられない。
それは阿部共実が描いてきた漫画の大主題なのだ。
なぜかというと、阿部共実の特徴は「影」、「ベタ」の使い方である。ベタは顔を隠す手段になったり、影になったり、線と面と白と黒のアンサンブルになったり、あるいは周りの「怖い」人間に化ける。
(「ちーちゃんはちょっと足りない」より)
しかし、この影は一体何なのか?影に名前はあるのか?これが阿部共実の「暗い話」と何の関係があるのか?
言わなくてもわかることがある。悲しみ、寂しさ、嬉しさなど、無理矢理言わなくてもそれをわかることはできる。それでも、言わなければならないことがある。ナツはちーちゃんを見つけて家に帰る。ちーちゃんと家に帰りながら、ナツは言う。
「どうでもいいや、そんなこと」
そんなことはどうでもいい。万引きをしても、金を使ってリボンを買っても、ちーちゃんがいなくなってまた彼女を見つけても、そんなことはどうでもいい。ナツはようやく「罪意識」に目が覚めたのだ。彼女は影を背負うことになる。
ちーちゃんという漫画はギャグではない。童話でもないし、少年漫画でもない。この漫画は人生の一面について語っている。それを受け取る(買う)人間は罪が人生を明瞭にすると信じる。受け取らない(買わない)人間は、人生と人間について別の世界観を持っている。それらを調和する普通の努力は意味があるかもしれない。だが、極めて難しい課題でもある。
ナツが涙を流しながら涙の海を作って、その下に影があって、またその下に影があって、地面が足の下にある。地面は全てを受け止めるように見える。しかし人間は今日も煩悩し、金を使い、また夜中(世の中)を物騒なものにする。
それでも良い。明日は朝に目がさめる。日が昇り、自分を覆う影が黒くなってまた黒くなって極黒に見えるんだと知っていても。
須賀秀夫の嘘
自然体のあらゆるものの上に立ち
言語の破壊本能を持つ人間は、
小説と新しい物
最近、書いている、これから書く小説の方向についていろいろ考えてみた。そして結論を出せた。
「このままじゃダメだ。でも、一番嫌われる部分はそのまま押し続けるべき」
これって一体なんだろう、何をいいたいのかわからない人もきっといるだろう。真に、僕は筆遣いにあまり自信がない。賞をもらうことにももっとも自信がなくなる。書くことはすごく楽しくてやり甲斐がある、でも筆遣いが面白いと言って、翌日書けるなら、たぶん殆どの人が筆遣いを仕事として飯食ってる。例えば、ここではどんな筆なのかが問題になっている。それで、僕は僕がどんな筆を持つべきか、どんな風に書くか個人的にいろいろ悩んでみた。時折友達に聞いてみたり、周りの知人に意見を伺ったりして。そして出た結論がそれ。このままじゃダメだ。
このままじゃダメ、という思い込みが僕を動かせることには疑問がない。だけど、「このまま」の意味がよくわからない。「このまま」って一体なんだろう?このままってどういう事?僕の考える限り、それは人たちに依存する本能、愛を求める人の天性である。そんな本能や天性が決して悪いとは言わない。言えないだろう。しかし意味あるってことで全ての成り行きが真っ当になるわけじゃない。だとしたら、それは「意味」に対しての深い思いなく、本能的に飛び跳ねる、まさに生まれつきで貰った天性、「才能」に違いないに間違いなし。
でも僕は才能を拒む。思いっきり、人たちに相応しい才能を。
これはきっと我が儘だ。人たちが嫌いわけじゃない。バカだからでもない。付き合うことに疲れて?たぶん。明らかに、僕は書くことが好き。それは疑われることなどない。例えば僕は、無意識的に文章をページのなかに書き込んでる。本当ほぼ無意識的に。でもさあ、僕が僕の書いた小説を人たちに見せたり読ませたりするかと言えば、正直言ってしない。僕は怖がっているのだ、人たちに「読まれる」ことを。もちろん、それは僕に役立ち、そして僕の創作活動にも影響を及ぼす。いいか悪いかは別の問題にして、それにしても僕は、彼らに影響されることを怖がっている。それは怖い。恐ろしい。凄く、僕は人たちに読まれそうな小説を書くことが恐ろしい。それは、僕にとって、一番大切な「何か」を失いつつあることであるからだ。
僕は怖がっているので小説を書きながらも、「このままじゃダメ」とか思いながらも、もっと嫌われたい。それを内心楽しむ。もし僕が頑張って小説を書き、投稿し、発表することになってしまったら、それはあかん。僕はきっと「いい形」を持つようになる。でもそのいい形って、実際は僕が本当に、真面目に書きたかった物語とは随分外れている。離れている。もう完全にそれを失っている。「待つことができれば譲る必要はない」とフロイトは言ったけど、その通り僕はこのままずっと待つことになる。しかし、一方では、僕は実践的な意味で僕を追い詰め、缶詰め、拘わり、そして僕をダメにするんだろう。でも「このままじゃダメ」というのは、よく考えてみると両方とも同じように思われる。一体俺って、今どこにいるんだ?
夏目漱石の「野分」て、結構面白い。村上春樹は読んでいる日本の小説家のなかで、夏目漱石と吉行淳之介を述べている。これは100年前書かれた小説なんだけど、ぜんぜん古く感じられず、むしろ新しい感じまでする。さすが、夏目漱石って凄い。こんな鈍い筆遣いの僕とはぜんぜん違う。